東京高等裁判所 昭和34年(う)2396号 判決 1960年2月29日
控訴人 被告人 五月女寅之助
弁護人 大貫大八 外一名
検察官 上田朋臣
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は弁護人大貫大八同岩本義夫共同作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここに之を引用し、之に対し次のとおり判断する。
控訴趣意第一点について
原判決書によれば原判決が其の理由中罪となるべき事実の第四として、「被告人は前記(第三)傷害事故を起こすや直ちに現場における交通の安全を図るために必要な措置と被害者救護の措置とを講じたのであるが、その際事故現場には警察官が居なかつたのであるから、直ちに事故発生地の管轄警察署の警察官に右事故の内容及び講じた措置を報告しなければならないのに拘らず、これを怠り、その所轄鹿沼警察署の警察官に右の報告をなさずして放置し」との有罪事実を認定判示し、之に対し道路交通取締法第二十八条第一号第二十四条第一項同法施行令第六十七条第二項第一項を適用し、弁護人の右施行令第六十七条第二項を適用することが、憲法第三十八条第一項に違反し無効であるとの主張を排斥して居ることが認められる。之に対し所論は要するに原判決は右施行令第六十七条第二項にいう「事故の内容」とは例えば氏名を告げず又は偽名して電話をかけるとか或は他人に依頼するとかの方法により、而も事故の輪郭だけを警察官に報告すれば足りるから、この程度の報告を強要しても憲法第三十八条第一項の黙秘権を害したことにはならないと説示して居るが、右解釈は不当である。(一)旧道路交通取締令第五十三条第二項には「前項の車馬操縦者は前項の措置を終え本人、雇用主、車馬の使用主の住所、氏名及び自動車の運転者にあつては車両番号を警察官吏に申告し云々」と規定し、現行道路交通取締法施行令第六十七条第二項には「前項の車馬又は軌道車の操縦者は前項の措置を終えた場合において、警察官が現場にいないときは、直ちに事故の内容及び前項の規定により講じた措置を当該事故の発生地を管轄する警察署の警察官に報告し、且つ、車馬若しくは軌道車の操縦を継続し又は現場を去ることについて警察官の指示を受けなければならない。」と改正したのだから現行の施行令第六十七条第二項は旧取締令の操縦者の住所、氏名、車両番号等の報告だけでは、交通事故により破壊された交通秩序の収拾回復に不充分であつたので、之に加え「事故の内容」を報告させ、所期の目的達成に万全を期したものに外ならない。従つて右報告義務は原判決の云うように操縦者の氏名を告げず又は偽名を用いて電話をかけるなどの方法で報告するだけでは不十分であること言を俟たない。(二)右施行令第六十七条第二項は右のとおり「事故の内容」の外被害者の救護又は道路に於ける危険防止其の他交通の安全を図るため必要な措置を講じ、講じた措置をも報告すべき旨規定して居り右は交通事故の発生により惹起された交通秩序の混乱を警察官によつて防止し、或は被害者の救護が適切であつたかどうかを警察官が判断し万一適切でないときは之を是正する手懸りを得なければならないから、右「事故の内容」の報告義務は原判決の云うように単に事故の輪郭の報告とか或は操縦者の氏名車両番号等の報告とかだけでは報告を受けた警察官は何等事後措置を執り得ないことと為る。(三)右施行令第六十七条第二項は右のとおり「事故の内容」「講じた措置」の報告を為した上、車馬若しくは軌道車の操縦を継続し又は現場を去ることについて警察官の指示を受けなければならないから、右報告義務と警察官の指示は不可分で若し警察官の指示に反すれば処罰される虞があるから、適正な指示を受けるためには「事故の内容」を詳細に報告しなければならない。従つて「事故の内容」は広範囲に亘り報告せざるを得ない。(四)右「事故の内容」は文理上からも原判決の云うように狭く解釈出来ない。以上のとおり右施行令第六十七条第二項の「事故の内容」の報告義務は当該操縦者の氏名、車両番号等の報告の外交通事故の原因と結果とを詳細に報告すべき義務を課して居るものと見られ、警察官に対する「事故の内容」の報告は直ちに過失犯の捜査につながり自己に対する刑事訴追又は有罪判決を招来するような虞ある供述を強要される結果となる。また仮りに原判決の云うように右「事故の内容」の報告を狭く解釈し車馬の操縦者の氏名車両番号等を報告すれば足るものとしても、警察官の指示により現場を立去ることを差止められる結果となり、警察官により事故の原因を追及されることとなるであろう。然らば車馬の操縦者に「事故の内容」を報告すべきことを義務づけた右施行令第六十七条第二項の規定は明らかに憲法第三十八条第一項に違反する規定であつて原判決にはこの点に於て判決に影響を及ぼすこと明らかな法令適用の誤があると云うに在る。
よつて案ずるに、憲法第三十八条第一項には何人も自己に不利益な供述を強要されないと定められて居る。而して所論道路交通取締法施行令第六十七条第二項は道路における危険防止及び其の他交通の安全を図るを目的として規定された道路交通取締法中第三章雑則として、車馬又は軌道車の交通に因り、人の殺傷又は物件の損壊があつた場合においては、車馬又は軌道車の操縦者又は乗務員其の他の従業員に命令の定める被害者の救護其の他必要な措置を講ずべきことを義務づけた同法第二十四条の規定を受けた政令であることが明らかである。而して右施行令第六十七条第一項には「車馬又は軌道車の交通に因り人の殺傷又は物の損壊があつた場合においては、当該車馬又は軌道車の操縦者、乗務員其の他の従業者は、直ちに被害者の救護又は道路における危険防止その他交通の安全を図るため必要な措置を講じなければならない。この場合において、警察官が現場にいるときは、その指示を受けなければならない。」旨規定し、同条第二項には「前項の車馬又は軌道車の操縦者(操縦者に事故があつた場合においては、乗務員其の他の従業者)は、同項の措置を終えた場合において、警察官が現場にいないときは、直ちに事故の内容及び同項の規定により講じた措置を当該事故の発生地を管轄する警察署の警察官に報告し、且つ、車馬若しくは軌道車の操縦を継続し、又は現場を去ることについて、警察官の指示を受けなければならない。」と規定しているので、車馬(車馬又は軌道車)の交通に因り人を殺傷し物の損壊があつた場合、車馬の操縦者等(操縦者乗務員従業員)は直ちに応急処置として被害者の救護又は道路における危険防止其の他交通の安全を図るため必要な措置を講ずる義務を負い、該義務の履行につき警察官が現場にいるときは之が指示を受け、警察官が現場にいないときは車馬の操縦者等は直ちに事故の内容及び講じた右応急処置を所轄署の警察官に報告し、車馬の操縦を継続し又は現場を去ることについて警察官の指示を受けなければならないことが明らかであるから、右施行令第六十七条第二項の「事故の内容」とは、操縦者等が講じた右応急処置の適否を判断し操縦者等が、操縦を継続し又は現場を去ることにつき警察官がその指示を為し得る必要な限度において交通事故により発生した事故の種類、程度、日時、場所、報告当時の交通状況等発生した事故の概況を報告すれば足り、その報告は、操縦者等の刑事責任を推測される事故発生の原因等事故の調査事項に渉るものを要求するものでないことが明白である。従つて右警察官に報告する「事故の内容」は、所論のように操縦者等の業務上過失致死傷罪等の刑事上の責任を問われる虞ある事項を含むものではなく、之を報告すべく義務づけたからと云つて刑事上の責任を問われる虞ある事項の報告を強要したことにはならないから、右施行令第六十七条第二項は憲法第三十八条第一項の保障した自己に不利益な供述を強要されない権利を侵す規定であるとは云えない。それ故右施行令第六十七条第二項が憲法に違反するものであることを論拠とする所論は其の理由がなく、原判決には所論のような判決に影響を及ぼすこと明らかな法令適用の誤はない。論旨は理由がない。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 山田要治 判事 滝沢太助 判事 鈴木良一)
弁護人大貫大八外一名の控訴趣意
第一点原判決中罪となるべき事実第四の判示部分は、憲法に違反した無効の法令を適用した誤りがあるから、破棄されたい。
原判決は判示罪となるべき第四公訴事実第一につき道路交通取締法第二十八条第一号、同法第二十四条第一項、同法施行令第六十七条第二項を適用しているが、右のうち、道路交通取締法施行令第六十七条第二項中操縦者の報告義務を定めた部分は、憲法第三十八条第一項の規定に違反し、無効である。原判決が、憲法第三十八条第一項の黙秘権の保障は、刑事手続のみならず交通安全を図るという行政目的達成のために設けられた道路交通取締法の手続にも及ぶものと判断したのは正当であつた。原判決がいうように、道路交通事犯にあつては、行政手続であつても刑事手続に移行する可能性が常に存在する。両者の関係は、原判決が適切に表現したように、「表裏一体をなすもので、これを分離しえない。」ものである。憲法第三十八条第一項が、アメリカ合衆国修正憲法第五条を母法としながら、あえて右規定に異を唱え、「刑事事件において」という文言を用いなかつたのは、行政手続と刑事手続とが右のような不即不離の関係にあることから、黙秘権の及ぶ範囲を刑事手続にのみ限定することは適切でないと顧慮し、刑事手続であると行政手続であるとを問わず、結局自己に対する刑事訴追または有罪判決を招来するような虞のある供述を強要されないことをひろく保障したのである。もともと国民の権利を保障する規定を、明文の根拠がないのに限定して解釈することは許されない。アメリカ合衆国修正憲法第五条のように黙秘権の保障をし刑事手続に限定する明文がわが憲法第三十八条第一項には置かれていないのに、解釈により強いて母法たる右合衆国憲法の規定と同じ内容に限定しようとするのは憲法解釈の原理にもとるばかりか、憲法を擁護する義務を自ら放棄するものである。さらに、原判決が、公共の福祉という抽象的概念をもつて前記道路交通取締法施行令第六十七条第二項の事故内容報告義務の合憲性の根拠としなかつたことも正当であつた。交通の安全を確保するという公共の福祉は、人類が多年にわたつて歴史と犠牲をかけて獲得した黙秘権を奪えるほどには、貴重な価値をもつとは考えられない。公共の福祉を強調することはたやすい。しかし、公共の福祉によつて、基本的人権を制限するには何人もなつとくするに足りるだけの必要性と合理的な理由がなければならないのである。しかし、原判決が右道路交通取締法施行令第六十七条第二項にいう「事故の内容」を「氏名を告げず又は偽名して電話をかけるとか、あるいは他人に依頼するとかの方法により而も事故の輪郭だけを報告する場合の如く、逮捕乃至は検挙等刑事手続の対象となる直接の危険が伴わない手段をとる場合」と極度に狭く限定して解釈し、「右程度の報告を強要しても、黙秘権を害したことにならない。」と断定したのは全く正しくない。右「事故の内容」とは、操縦者の住所、氏名および自動車番号はもちろん、何時、何処で、どのような態様によつて、誰にどんな傷害もしくは死亡の事実を与えたかということまでも含むと解釈するのが正しい。けだし、
(一)旧道路交通取締法施行令第五十三条が右報告義務の対象を、多くのアメリカ諸州の制度と同じく、操縦者本人および雇用主の住所、氏名、車輌番号等に限定していたのを、現行道路交通取締法施行令第六十七条第二項は、報告義務の対象を「事故の内容」と改めた。右改正により、操縦者、雇用者の住所、氏名や車輌番号は報告を要しないことになつたと解釈することは到底不可能である。右のような氏名等の報告だけでは、事故の惹起によりいつたん破壊された交通秩序の収拾回復に支障があつたため、右氏名等の報告に加えて、「事故の内容」までも報告させ、所期の目的達成に万全を図ろうとしたのが、前記改正の趣旨である。果して、然らば、道路交通取締法施行令第六十七条第二項にいう事故内容の報告義務は、操縦者自らが、その氏名なり、車輛番号を正直に警察官に報告すべきことを義務づけているのであつて、原判決のように、氏名を告げず又は偽名を用いて電話をかけるとかの方法で報告することだけでは未だ足りないというべきである。なお、そのうえに、事故の内容を報告すべきことを新たに義務づけたのが、現行の道路交通取締法施行令第六十七条第二項の報告義務なのである。
(二)右施行令第六十七条第二項は、事故の内容を報告した上、被害者の救護又は道路における危険防止その他交通の安全を図るために講じた措置を当該事故の発生地を管轄する警察署の警察官に報告し、且つ、車の操縦を継続し、又は現場を去ることについて、警察官の指示を受けなければならないとしている。右規定によると操縦者に事故内容の報告義務があるのは、事故の発生に伴つた交通秩序の混乱を警察官の手によつて防止しあるいは被害者の救護措置が適切であつた否かを警察官が判断し、万一不適当な場合には是正するべく判断の手がかりを与えるためである。そうだとすると、操縦者の氏名とか車輌番号だけの報告とか原判決のいうような事故の輪郭にとどまる報告では、報告を受けた警察官は何のことかわからず、したがつてどのような事後措置をとるべきかの判断の手がかりさえ得られずかくては事故内容の適確な判断のうえに立脚し、交通秩序の混乱を防止したり、操縦者の不適切な救護措置を是正するために、操縦者が車の操縦を継続してよいか、なお、現場にとどまるべきかの指示を与え得ないことになろう。したがつて、「事故の内容」は、原判決所論のような狭い範囲のものでなく、自ら広範囲なものとならざるをえないのである。
(三)原判決は、右警察官の指示を事故内容の報告義務とは全く別個な制度と観念し、「事故内容」の範囲を解釈によつて決めるにさいしても注意ぶかく右指示の制度の存在による影響を避けている。しかし車の操縦者が、車の操縦を継続してよいかそれとも事故現場にとどまるべきかの指示は、事故内容の報告と一体不可分である。けだし、事故内容の報告は、警察官の指示を適切ならしめるための従たる制度として存在意義があるからである。明文の上においても、「事故内容及び……講じた措置を……報告し、且つ……警察官の指示を受けなければならない。」(傍点は弁護人が付した。)と規定し、前記報告の制度と警察官の指示の制度とが一体不可分なことを明らかにしている。そうだとすると、報告を徴する警察官が同時に犯罪の捜査を担当する司法警察職員であるから、事故の内容について詳細に供述することを強要されることになろう。警察官により事故現場を立去ることを強制的に差止められた上で指示に反したときは処罰される運転者の事故発生に関する刑事責任に及ぶ事実を追及されるならば、運転者において黙秘権を行使することは、殆ど不可能事に近い。黙秘権を行使している限り何時までも事故現場にとどまつていることを強制されるからである。この点からいつても、報告する「事故の内容」は原判決所論のように狭い範囲のものでなく、自ら広範囲たらざるをえないのである。右のように事故内容の報告と報告を徴した警察官の指示が一体不可分をなして交通秩序の回復に奉仕している事実を単に制度上、運用上の問題にすぎないから、法規の解釈の根拠とならないと軽く一蹴し去ることは許されない。黙秘権の保障を侵害するような運用をもたらす法令は、解釈の上におても運用の実態に即して、違憲であると解釈されなければならない。そうでないと法規の解釈の結果合憲とされる法規が、運用の面では不断に国民の基本的人権を侵害しつづけ、かくては黙秘権をはじめとする人権の現実的保障は有名無実となるであろう。
(四)「事故の内容」という文言の素直な解釈からみても、原判決のようにこれを事故の輪郭がわかる程度であれば足りると狭く限定して解釈することは不当である。内容といえば、事故の原因とか過程の事実をかなり詳細に含んでいるとみるのが、素直な、ことばの普通の用法に即した解釈であつて、事故の内容と明白に規定されているのに、事故の輪郭と置きかえてしまうのは、詭弁以外のなにものでもない。法の解釈にとつては、ことばを一般社会で使われているとおり素直に読みとるのが、アルフアでありオメガでもある。
以上に述べた諸理由から、道路交通取締法施行令第六十七条第二項にいう「事故の内容」とは、事故を発生させた当該車輌の操縦者が自己又は雇用者の氏名、車輌番号を正直に申告した上、同時に事故の原因とか結果をかなり詳細に報告すべきことを含んでいると断定すべきであろう。そうだとすると、警察官に対する事故の内容の報告はただちに過失犯の捜査につながり報告者にとつては、自己に対する刑事訴追又は有罪判決を招来するような虞のある供述を強要された結果となる。かりに「事故の内容」を狭く限定して事故の輪郭がわかる程度で足りると解しても、前述した警察官の指示により事故現場を立去りえないとすると、直ちに犯罪捜査を担当する司法警察職員が報告者(事故を発生させた者)が残留を強要せられている事故現場に急行し報告した操縦者にたいし事故の原因をこまかに追及したり、事故の模様をくわしく探索しはじめるであろう。(われわれは、「車……の操縦を継続し、又は現場を去ることについて、警察官の指示を受けなければならない。」旨の、道路交通取締法施行令第六七条第二項の規定は、ある場合には車の操縦者が、現場を立去ることを差止めることを強制していると考える。けだし、現場を立去るなとの指示を無視した者は、指示に違反した廉により、道路交通取締法第二十八条第一号により処罰の対象となるからである。)はたして、然らば原判決のように「事故の内容」を狭く解釈してみても、操縦者の氏名、雇用主の氏名、あるいは車輌番号の報告を免れえない以上自己に対する刑事訴追または有罪判決を招来する虞のある供述を強要されることになる。いずれにしても事故を発生させた車の操縦者に事故内容を報告すべきことを義務づけた道路交通取締法施行令第六十七条第二項は、憲法第三十八条第一項に規定された黙秘権の保障を侵害するから憲法に違反した無効な規定である。原判決は、法令の適用を誤り前述のように違憲無効な規定で罪となるべき事実第四を擬律した違法があり、しかも右誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄されたい。
(その他の控訴趣意は省略する。)